自歩人の生活 LIFE OF JIPPOJIN

北原照久さん(コレクター)

究極のコレクションの中での暮らし

世界的なブリキのおもちゃコレクター、北原照久さん。37歳で「横浜ブリキのおもちゃ博物館」をオープンし、2009年4月には8つ目の博物館が誕生する。それでもまだ、あと10軒分の博物館が建つだけの物を秘蔵していると言う。一つも売らない、ひたすら買い集めた41年間。彼の代名詞でもあるブリキのおもちゃも、実は全コレクションの2割に過ぎず、ポスター、時計、レコード、雑誌に家具など、アンティークも現代アート作品も、触手は広がるだけ広がった。そして、語る夢はさらに大きかった。海の家に住みたい、加山雄三さんに会いたい。彼こそ元祖ビッグマウス、そして有言実行の人。そんな北原さんが究極のコレクションと呼び、また旧竹田宮別邸でも知られる、佐島のお宅を訪ねた。

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そのときは“夢”でしかなかったけど「僕は住む家を決めた!」と大公言

佐島の家は、憧れの結晶。コレクターたる僕の究極のコレクションです。「海に住みたい」「景色のいい家に住みたい」「好きなものに囲まれて暮らしたい」という、昔からの憧れのすべてが詰め込まれているんですよ。

この家に出会い、手に入れるまでには、衝撃的で運命的な変遷がありました。最初は32歳で、博物館はまだできていない頃です。僕のコレクションが掲載された雑誌『ポパイ』の同じ号に、“海を庭にしてしまった家”というコピーで佐島のこの家が紹介されていたんです。もう一目惚れ! 「僕は住む家を決めたぞ、ここだ!」と周囲に大公言しました。

数年後、今度は『ブルータス』で再会。僕のおもちゃで作ったファンタジービデオ『ティン・トイ・クラブ』が紹介された号の巻頭が湘南の不動産情報で、同じ家が売りに出されていたんです。「あの家だ!」って、もう燃えましたよ。自分のコレクションが掲載された同じ雑誌で、2回も遭遇したんですから。8億円という価格には驚きましたが、そこで思い出したのが、「同じ人間だ、お前だってやればできる」という高校の恩師の言葉です。アルファベットも読めず入学した僕が、この一言のお陰で3年後には800人をゴボウ抜きし、総代で卒業しているんですよ。

卒業してからこれまでも、数えきれないほどの“やればできる”をやってきた。今度だって、やればできる。必死で思い続け、周囲に語り続け、購入のために働き通しました。

そのとき、この家はまだ“夢”でしかありませんでした。とはいえ、ひとかけらの疑いも僕にはなかったけど(笑)。尊敬する一人、VANジャケットの石津謙介氏は、「住まいにこだわるべし」と言いました。なぜなら、家はそこに住む人を育てるから、と。僕はこの言葉を重く受け止めています。そして、佐島の家を思い続けることで、住まいへのこだわりを心に育てたんですね。

物は、自分を一番欲しがってくれる人一番大事にしてくれる人のところに行く

出会いから12年後の1997年、49歳のとき、家は僕の元にやってきました。本当にうれしかった。僕よりお金持ちでこの家を欲しがる人は幾らもいたけど、一番欲しかったのは僕だと自信を持って言えます。“物”は、自分を一番欲しがってくれる人、一番大事にしてくれる人のところへ必ず行くから。僕らは運命的に結ばれていたんです。

「海に住みたい」という憧れは子どもの頃からですね。実家は山とスキー専門の店でしたから、山派の父に習って僕もスキーは大得意。でも、とにかく海も大好きなんです。高校3年間は、横須賀線に乗って長者ケ崎や一色海岸に頻繁に通っていたほどです。毎日海を見られる生活ができたらなんて素晴らしいだろう…と、真剣に思いました。

「好きなものに囲まれて暮らしたい」というこだわりは、僕がコレクターになった理由でもありますね。コレクションを始めたきっかけは、19歳で留学したオーストリア。古い物を大事にし、自慢さえするライフスタイルに触れ、強く影響されました。30万キロ走ったワーゲン、ひいおじいちゃんのテーブル、ひいおばあちゃんのお鍋。そのお鍋で作った料理は、ジャガイモを煮ただけなのに美味しかったなぁ…。あのとき体験した古い物を慈しむ暮らしを、今、僕はこの家で実現しているんですよ。テーブルはフランク・ロイド・ライト、ソファはポール・フランクで、どちらも1930年代もの。照明は1920年代アンティーク、昔のチョコレートショップのショーケースも飾りました。中には、家に合わせてアール・デコ調のティーポット、ライター、カメラ、人形を入れています。蓄音機や真空管のレコードプレーヤーもご機嫌に使えるんですよ。何年使っても、時を経るに従って輝きを増す物があるんです。
外も、内も、この家すべてが僕のコレクションです。

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