自歩人の生活 LIFE OF JIPPOJIN

落合務さん(イタリア料理店・オーナーシェフ)

魅力的なイタリアの人々がいたから今の僕がある。

“日本一予約の取れない”イタリアン・レストランともいわれる「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」のシェフである落合さん。
最初はフランス料理からスタートしたものの、偶然、4日間だけの滞在で立ち寄ったローマの街で出逢ったイタリア料理に感銘を受け、修業を開始。
帰国後、東京・赤坂「グラナータ」総料理長となり、文字通り、日本にイタリア料理を広め、根付かせたパイオニアである落合さんにイタリアの料理と人の魅力そして、自らのライフスタイルについてお伺いした。

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異国人がその国の文化を職業とする。 ならば、その文化をちゃんと学ばなくてはいけない。

僕は17歳で料理の世界に入っているのですが、その当時「フランス料理」なんて言い方は無かった。西洋料理=フランス料理だった時代です。少なくとも「イタリア料理」などというカテゴリーは日本にはしっかりとしたものは確立されていなかった。
さらに、ちゃんとしたフランス料理を出している場所というのは、ホテルくらいしか選択肢がなかったんです。現代のようにフランス帰りのシェフが街場で店を開くようになるのはまだ先のことです。当然のように僕も、伝手を頼ってホテルニューオータニで4年半ほど勤めるなどして、さらに数年後フランスに短期間留学しました。
その留学からの帰りに4日間だけイタリア・ローマに立ち寄る用が出来た。これが運命でした。

当然、ローマの街なんて右も左もわからないから、ホテルの近くでご飯を食べていました。そのときは、はじめから運命だとも思っていないし、イタリア料理に感動したわけではないんですよ。1日目、2日目は、むしろ「上から目線」で、イタリア料理のことを馬鹿にしていたかもしれない。見た目も味付けも洗練されていないと感じたから、「なんだこれは」とさえ思っていた。
でも、3日目にもなると、気持ちが変わってきたんです。飽きないし、美味しい。
フランス料理は料理として素晴らしいし、美味しい。勉強する価値もあった。でも、日本で店を開いたとして毎日お客様が食べに来てくださるものだとは思わなかった。ところが、そのローマで出逢ったイタリア料理なら毎日食べられるし、たとえ昼に食

べた後、またその夜に食べても大丈夫だと思ったんです。だから、改めてイタリア料理というものを勉強したいと思ったわけです。感動したというより、見直したといった方がいいかもしれないですね。

イタリアで気づいた自分がめざす料理の道

その当時のイタリア料理はフランス料理に比べると技術的にはかなり遅れていました。オムレツひとつきれいに焼けないし、魚も三枚におろせない。ところが彼らイタリア人は「だから何なんだ」とそういう技術的なことを重要視しないんです。
僕がそれまでに得た料理技術・知識を超越したものを持っている。いい加減そうに見えて、最終的に辻褄が合う。
その後、イタリアに修業に出たわけですが、修業というものは

技術を学びに行くことではあるけれど、僕らのように異国の人間がよその国の文化を職業とするからには、その国の文化を学ばないといけないはずです。料理には背景があります。「なぜ、そういった料理を食べるのか」ということまでお客様に説明できなければならない。だから、料理とその周縁にある文化も同じように学びました。

こんなことを考えていただければわかるでしょう。たとえば、日本料理をイタリアでイタリア人がやっている。そうしたら、日本人の皆さんはどう思いますか?「えっ」と思いますよね。
だから、イタリア人のお客様ともきちんと話ができて、意思疎通が出来て、「こういう事情でイタリアに行き、こういう料理を学びました」と言えなければいけないと思うんです。
技術だけが重要なのではないのだということをこのイタリアで気づかされました。
結局、イタリアではローマ、イスキア島、パレルモ、シラクーサ、フィレンツェ、と移り、日本に帰ってきて82年5月から東京・赤坂の「グラナータ」という店でシェフとなりました。
オープンしてすぐは、物珍しさからか、いろんなお客様がいらっしゃったのですが、すぐに閑古鳥です。その後、100席の客席が半分埋まるようになるのは秋頃。お客様がある程度定着したのがオープン1年あまりしてから。予約の取れない店になったのは83年の秋になってからです。

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