自歩人の生活 LIFE OF JIPPOJIN

綾戸智恵さん(ジャズシンガー/ピアニスト)Chie Ayado

常に精一杯の力を込めて歌い続けるのが綾戸流

年間100本を超える公演チケットのほとんどが完売するため、
もっともチケットの取れない歌手ともいわれる、ジャズシンガーでピアニスト。
ものごころがついたときから音楽に囲まれていたという綾戸智恵さん。
話術にも長けた綾戸さんは、身長147僂半柄ながら
テレビで、ステージで、パワフルな歌声を響かせて多くの人々を魅了する。
音楽に対してどのような姿勢で取り組み、何が観客の心を動かすのか?
そして、一番大切なものと語る家族との生活についても伺った。

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ピアノを弾くだけで喜ぶ人がいるそんな世界を知った中学時代

私は、ジャズが好きな両親のもと、大阪の天王寺という下町で育ちました。3歳からピアノを弾いていたんですが、英才教育ではなかったですね。たまたま、音に囲まれた生活をしていた。そして、中学に入った年に大阪で万国博覧会が開催され、たくさんの外国人が大阪にやってきました。ジャズを聞いて育ちピアノが弾けるということで、ある方から外国の方々が集まるナイト・クラブでピアノを弾かないかという誘いがあって、演奏をすることになったんです。私がピアノを弾くと、大きな拍手や歓声があがり、音楽はこんなふうに人を喜ばせるのだと知りました。また、そのときの演奏のギャランティはお金ではなく、当時流行り始めたブランドもの、マンシングやラコステ、アーノルド・パーマーなどの服やハンカチを頂きました。嬉しかったですね。でも、ピアノで食べていこうなんて夢にも思わなかったですよ。ただ、西洋文化、とくにアメリカが好きだったんですね。小学校の頃からハリウッド映画を見ていたし、万博にも定期券を買って通うほどでした。そこまでアメリカが好きだった。だから

本場に行きたいという気持ちが私の中でどんどん大きくなっていきました。そして万博から約5年後、高校を卒業するとすぐに、何のつてもないままアメリカ・ロサンゼルスへ渡りました。ただただ、アメリカに憧れていたんです。現地では、演奏の仕事をしようにもビザなどの理由もあって活動できませんでしたから、アルバイトをしたり、教会でゴスペルを歌うなどしていました。いわゆるプロの歌手となったのは帰国してからのことです。
1991年に帰国してからも、いろんな仕事を経験しながら大阪のジャズ・クラブで歌いました。それでご縁があり、1998年に『For All We Know』というCDで、40歳にしてプロの歌手としてデビューしました。

世の中に対して、私にできることは音楽

私は、アルバムをつくるとき、収録曲の構成内容についてはほとんど何も考えないんです。毎回、自分のこれまでの音楽人生の中の「貯蓄」とも言える楽曲の中から、未収録だった曲を収録してきました。そして、それらの曲を収録したあとで、スタッフが曲の順番や構成を決めていくというスタイルをとっているんです。
人生にはいろんなことがあるじゃないですか。結婚、離婚、出産、友人関係…そういったさまざまな要素が私の音楽づくりに影響してきた。そして、天変地異も。今回、アルバムのレコーディングが3分の1程度終わった頃に、大きな天変地異が起き

てしまった。私は思ったんです「音楽は世につれ」というのは本当だと。音楽はそれぞれの時代時代を映し、人々の気持ちに寄り添うものだと。私は今回の震災を受け、世の中に対して何かお役に立てないだろうかと考えました。私だけじゃありません、スタッフもそうだし、おそらく日本中のみなさんが思ったことでしょう。そのなかで、私は音楽という形で精神的、肉体的に被災された方々に寄り添おうと、祈りを意味する『PRAYER』というアルバムをつくった。でも、どういう曲を収録すれば心が癒されるだろうとか、涙が出るだろうとか思ってつくったわけではないんですよ。こうしよう、ああしようなんて考えてはいない。
涙って流そうと思って流すものではなく、勝手に流れるものですよね。だから、今の私の心情をそのまま曲に乗せて収録したんです。

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