自歩人の生活 LIFE OF JIPPOJIN

ピーター・バラカンさん
				(ブロードキャスター)Peter Barakan

語学と音楽が生んだ日本文化との出逢い

穏やかで知性を感じさせる独特の語り口でファンも多い
ブロードキャスターのピーター・バラカンさん。
いまや生まれ育ったロンドンで生活した期間より、
日本での生活のほうがはるかに長くなったという。
日本人の奥様と2人のお子さんを持つ彼のこれまでの人生や
音楽が彼に与えた影響、そしてこれからのライフワーク。
日本を愛する英国人に自らの生き方を語って頂いた。

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ピーター・バラカンさん(ブロードキャスター)

ロンドンで見た求人広告それが日本への架け橋となった

1974年に日本にやってきて、もう37年になりますが、こんなに長く住むことになるとは思ってもみませんでした。高校を卒業するとき、そのまま就職するのも嫌だったから大学へ進んだのですが、語学が得意で、その当時は比較的入学が楽だったいうこともあって、日本語学科を選んだんです。そのときは、語学を生かした仕事をしようと考えていたわけでもなかった。ところが、大学を出てレコードショップに勤めていたある日、興味深い求人広告が目に入ったんです。シンコーミュージックという音楽出版社が海外の会社とビジネスレターのやり取りができる人間を探していた。それがきっかけで、日本に来ることになりました。結局、シンコーミュージックには1980年までいて、その後、当時YMOが在籍していたヨロシタミュージックに入社しました。
同じ頃、FM東京でDJをはじめて、2年後には矢野顕子さんがメインDJの「スタジオテクノポリス27」という深夜のラジオ番組のアシスタントを務めました。彼女が番組を降板した後は、私が一人で番組を続けたんですが、深夜帯で聴いている人が少ないからと、好き勝手に番組を進行していました。その自由なスタイルが気に入ったと、TBSテレビで番組企画を担当していた人に音楽番組の司会をしないかと誘われたんです。それが「ポッパーズMTV」という番組でした。私は、無理に目立とうとはしないし、TVに出たいと思ったわけではなかった。ただ、自分のいいと思う音楽を知って欲しいという気持ちがあってその話をお受けしました。
その後は、音楽とは関係のない「CBSドキュメント」という番組が88年から始まって、番組名や放送局こそ変わりましたが、現在も「CBS60ミニッツ」という形で23年も続いています。この番組はそれまでのような音楽番組ではなく、自分自身、政治や経済の専門家でもないから固辞しました。でも製作サイドから、CBSであらかじめ編集している映像を見ながら、一般人の立ち位置で自分の思っていることを正直に伝えてくれればいいと言われたんです。それでお受けしました。今でも続いているのは、その「一般人」としてのスタンスを守り続けているからでしょう。

ピーター・バラカンさん(ブロードキャスター)

大好きな日本とふるさとのイギリスそれぞれの良さと価値観の違い

日本とイギリス、その両方の文化には、それぞれの良さがあります。
イギリスについては、自分が幼少期・少年期を過ごしたところは無条件で懐かしいから、どうしてもすんなりと自分の中に入ってくる。特に「笑い」は日本よりイギリスの笑いのほうが自分には合うと思います。コメディはタイミングです。そして、タイミングを維持するために台本が必要です。台本が基本にあって、入念にリハーサルして、「間」を測る。そこに即興を入れるにしても、まっすぐレールが敷かれたところから突然脱線するから面白い。イギリスの笑いにはそれがあるけど、日本の笑いはそういったスタイルが少なくなった。80年代の漫才ブーム以降即興ものが増えてしまったからでしょう。ただ、落語は楽しいと思います。おそらく、落語には台本があるからでしょう。そして、落語には人間本来の姿を捉えた普遍的な笑いがあると思いますね。
日本の良さはなんと言っても食です。ロンドンの素朴なパブフードも好きだけど、日本は家庭でいただく粗食ですら本当に美味しい。ダシの味も好きですね。もし、日本が嫌になっても、最終的に食べものがひきとめてくれるんじゃないかな。そしてイッセイ・ミヤケの洋服。彼の服はアートだと思います。
思えば「CBSドキュメント」が始まった20年くらい前からでしょうか、本当にやりたい仕事が自分の思い通りにできるようになっていました。ちょうど同じころ、子どもが小学校に行く年齢を迎え、そのときに試験で合格することに重きを置く日本の教育のあり方に疑問を抱いたことがあった。子どもたちを日本の学校に入れてもいいのかなと。一瞬、ロンドンに帰ることさえ頭をよぎりました。でも、現実的な話として、ロンドンに戻っても同じような仕事をできる保証はないし、好きだったはずの日本を否定してしまった気がしました。そして、好きな仕事を続けるために好きな日本にいよう、自分たちが子どもたちをちゃんと見て、育てていれば、価値観は守れるはずだという考えに至ったんです。その結果、これだけ長く日本の社会でお世話になっているわけです。

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